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八戒という男は、なんでもかんでも事後承諾なのだ。何事もつねに自分ひとりで決めてから決めた内容を確認するためだけに問いかける。一緒に暮らしはじめてから三年もたつが相談を持ちかけられたことなどただの一度もない。それどころか問いかけるのも突然すぎるから、こちらは毎度激しく驚くことになる。 たとえば、今日のご飯はなにがよいかと訊かれたのであれがよいと答えれば、だと思ってあれにしました、とか、それがよいと答えれば、それは明日にしますから今日はあれで我慢してください、だとか。 決まっているのなら確認すらしなければよいものを、まるでそれが礼儀だとでも思っているかのように逐一問いかける。どうせ問いかけるのなら事後ではなく事前に言って欲しいものだと思い何度かそう注意してみたりもしたのだが一向に直る気配も直す気配もなく、単なる癖なのか、それともこちらを驚かせるためにわざとそうしているのではないだろうかと変に疑ったりもした。 そんなことを繰り返してきて、こちらも慣れたのだろうか、途中から驚くのをやめた、というか諦めた。面倒になったのも一論。驚かせてくる相手も腹立たしいが思惑通りに驚いている自分も悔しいから、驚いているのに驚いていない振りばかりをしている。 そう、いま思えば、二度目に出会ったときもそうだった。 「僕、悟浄のところに住まわせてもらうことにしました」 サルの頭をなで繰り回してこの感触も久しぶりだな、なんて思いつつ三蔵とやつの話に耳を傾けていたら、やつの口からとんでもないセリフが飛び出した。 いや、とんでもない、といっても別に嫌なわけではなくて。 そんなことは聞いていない。 そんなこと、相談されてもいない。 ここにくるまでの道すがら話したことなど他愛のないもので。屋台を冷やかしながらあれは好きか、これは嫌いか、などと問いかけてくるやつにあーそうかも、いやそうじゃないかも、などと適当な相槌で返しただけだ。適当なそのままに辿りついた寺院の前で焚かれていた香の独特な匂いになんとなく顔を顰めたら、敏感に察したやつが、この香り嫌いなんですね、僕ずっとここにいたから染み付いちゃってるかもしれません、なんて、ぽつりと漏らしただけだ。再会する前のことを聞いたのは、ただのそれだけ。 「だってあの人、ごみの収集日も覚えてないんです」 「猿以下じゃねえか」 生臭坊主は久しぶりに会ってもやはり生臭なまま、呆れたように執務用の机に頬杖をつきながら人のことを馬鹿にした。 机と、たぶん寝室代わりにもなっているのだろう、簡素なベッドのほかには目に付く飾り気もない殺風景な部屋は、普段はそれこそ殺風景に片付けられているはずだ。しかしいま、床には数十枚と紙切れが散乱している。いかにも綺麗好きでとっ散らかっているのが嫌いな三蔵さまのやらかしたことではなく、もちろん悟空の犯罪だろう、そこここに散らばるそれにはクレヨンで描かれた拙い絵と辛うじて読めないこともないミミズ文字が貼り付いていて。そんな乱雑なさまが気になるのかはたまたやる気がないだけか、散らばった紙切れとは逆に頬杖をついた三蔵の肘の下にある書類は白紙のままだった。 「義眼の調子はどうだ?」 「おかげさまで、」 書類からわざとらしく目を離して問いかける三蔵の隣で、やつが笑う。サルのじゃれ声に掻き消えてしまいそうなほどの小声で親しげにぽつりぽつりと語り合う話を盗み聞きして、思う。 このふたりは意外と仲良しさんであるらしい。 自分なんてこれからどうやら同居をする立場であるらしいのに住みたいと直接意思表示されたわけでもなく、あいつ義眼だったのか、なんて、それすらも知らなかったし。 そもそも名前を聞いたのさえいまが初めてだ。 「お前の足りない脳みそじゃ覚えらんねーだろ」 ばかにすんじゃねーよ、と喰らいついてきた悟空の声が新しい名前を連呼するのと同じように自分も頭の中で呼んでみた。 はっかい。 確かに、前の名前よりも似合っている。 四人で食事をしたあと、家に帰る途中、寺院に行く前冷やかした屋台やらなんやらで食材を買いあさった。嬉々として品を物色しているやつの背中に、先ほど三蔵に告げていた言葉の真意を聞きだせる猶予もなく、て。 「悟浄、今晩なに食べたいですか?」 野菜を叩き売りしている屋台の前で唐突に訊かれて、さっき食ったばっかだろう、なんて思いながら視線を向けた。何種類とある色とりどりの野菜を仇のように投げ飛ばしているしているどこぞの親父を背後にこちらを見ているやつは、手元にある丸々と太った茄子を撫でながら目を輝かせて本当に嬉しそうに笑っている。同居発言を聞いてからいままで、逸らしているのかなんなのかまともにこちらを見ようとしなかったやつの目がいま、こちらを向いている。機嫌のよさそうないまなら問うてもよいかもしれない、と口を開こうとしたら、その笑顔の中に、なにが食べたいか、以外に答えなど欲しくないという意志をなんとなく読み取って頭を掻いた。 つまり、いまは訊くな、とそういうことか? 「あー…揚げ茄子?」 「任せてください、得意料理です」 荷物を抱えた腕を振るってアピールして、その重みを支えきれなくてよろけたやつの身体を慌てて支えながら思う。 おかしいな。おかしいだろう。 やつに押し付けられた紫が鮮やかな茄子を手に考えて、目の奥がちかちかする。 むしろおかしいのは自分のほうか? こんなふうに、やつを受け入れるかのように荷物を持ってやったり、話題を合わせたりしている自分のほうなのだろうか? そう思い始めた夜に、やっとこ当の本人から話が出たというのもおかしな話だ。 しかも 「だめですか?」 ときたもんだ。 一瞬なにが駄目なのかもわからなかった。わからなかったから正直に 「なにが」 と問えば、 「忘れてんなら、いいです」 よかないだろうよ。 「八戒」 「なんですか?」 口に馴染みのない名前を自分でも不思議なほどすらっと吐き出したら、こちらもすらっと返事をする八戒とかいうやつの振り返った顔は、別れる以前と変わらないように見える微笑で、どこが生まれ変わったというのだろう。そもそも生まれ変わったというのなら生まれ変わる以前を知っている自分なんかとつるんでいないで、余所でひとり、新しく始めればよいものなのに。やり直せばよいのに。 思いながら、言うべき言葉を探してまじまじと相手を眺めて、気がついた。 そういえば、髪の長さが変わった。 「俺、ごみの収集日覚えてる」 自分も短くなった。 「前覚えてなかったじゃないですか」 「お前がいなくなってから覚えた」 「そうですか」 それはよかったですね、と小声で呟くのが聞こえて、しまった、と思ったのはなぜだろう。 笑顔は変わらないけれど、やつの声に潜んだ、沈んだ音色を感じ取ってしまったからかもしれない。 「よかったけどよ」 居たたまれないような気持ちに苛まれて髪の毛を梳こうと指を持ち上げたら長いときの感覚のままだったので手が空を掻いた。間抜けな格好で空中に手を止めて考える。 髪の長さが変わるということには一体どんな意味があるのだろう、自分はなにを思って後生大事にずるずると伸ばした髪の毛をここまで短くしたのか。 彼は一体なにを思って。 「あのさ八戒、」 「はい」 答えがわからないまま名前を続けて呼んだら、一瞬、本当に嬉しそうに笑った八戒の顔を見た。名前を呼ばれたことが嬉しいとでもいうように。 その笑顔に、妙に納得。 「名前、すげーお前らしいよ」 同居についてなにかしら問うべきだったのに、思わず口から出たのはそんな、恥ずかしいセリフで。 「ありがとうございます」 一瞬、間を空けて、照れながら言われた感謝の言葉にこちらも照れたように俯いた。 まあなんか、八戒だからいいや、なんて。 そう、八戒という男はなんでもかんでも事後承諾なのだと、そんなこと、三年も暮らしていればいやというほどわかっていたはずなのに。 ある日突然言われた言葉に自分は、驚いていない振りを装いながら案の定驚いてしまった。 「今週末、出かけますから」 「どこへ」 「西へ」 真冬への準備だろうか、なにを編んでいるのかはわからないが毛糸に木の棒のようなものを刺し込んで細々と動かしている八戒にきょとんと目を向けても、彼の目はこちらを見ようとせず一心に毛糸を睨んでいる。話をするときは相手の顔を見ながらと先生やなんかに教わらなかったのか、と腹立たしく思いながらこちらも意趣返しのように毛糸を見詰めたけれど、それは結局なんの意味もない。なんの意味もないが、器用に動く八戒の指先を眺めていたらなんとなく吃驚していた気も落ち着いてゆくように感じる。 驚いていない振りをするときはいつもこうして八戒の、目ではなく所作に気を紛らわして冷静を取り戻す。 「西って、そりゃあなんつーか、アバウトだな」 それでも出てくる言葉はやっぱり内心を隠しきれていないようで、うろうろと要領を得ないまま。アバウトといえばアバウトな行き先にそのままのことを言って、なにを言っているんだろうと自分で思う。 「三蔵から連絡があったんです、なんだか急用のようなので」 編み終わったであろう先っぽを一度翻して皺を伸ばす。微細に編み込まれた模様だけが伸ばしても消えない。毛糸の凹凸だけでよくまあこんなにも綺麗に表現できるものだ、一本の毛糸だけでできているとは到底思えない柄がとても緻密で繊細で、単なる毛糸の絡み合っただけのもののはずなのに、と思うだに感動した。 思わず手を伸ばして触ってみる。ごわついているのかと思いきや意外と柔らかい手触りに、寒さも相俟って手放せなくなる。 「引っ張らないでください、」 解けちゃいますから、と軽く叱咤しながら奪われたそれに少しばかり伸びた爪が引っ掛かった。微かにほづれたそれに、ああ、ほら、と苛立たしげに言われる。 「ごめん」 手を引っ込めながら謝った、けれど言うべきことはそうではない。驚く自分を誤魔化していたら話していた内容すらも飛んでしまったらしい。 出かける。西へと出かける。行き先が西だとすれば到達点はどこになるのだろう。まさかでかでかと「西」と書かれた場所があるわけもないだろうし西という名のついた地も知らない、ということはひたすらに西という方向へと突き進む、どこがゴールかもわからない、ということだろうか。それはつまり、旅に出るということだろうか。 それは、大変だ。が、しかし。 「で、?」 だからどうした、というような意味ではなく。 それを聞いて、自分はいったいどうしたらよいのかと。 「だから今週末、空けておいてくださいね」 そう、思えば彼の言うことは、事後承諾であっても結果的に自分の納得できるものだった。 よかった。八戒の決断に俺も入っていて。 |
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