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「本日は、こうしてお会いできて嬉しい限りです」 小柄だが、口に生えた真っ白な髭と対照的な黒のスーツをしっかりと着こなし、確かな威厳を放つ初老の男が頭を下げる。 それを受けて、テーブルを挟んで真正面に座る、オリーヴ・グリーンのスーツを纏ったすらりとした長身の、一対の翡翠を持つ青年が深深と頭を下げた。 「こちらこそ、本日はこのような席を用意して頂いてありがとうございます。誠に申し訳ないのですが、我が社の社長が急な海外出張の為にどうしても席を外さなければならず、その代理を仰せ付かってきました私、副社長の猪八戒と申します。よろしくお願いします」 スーツの懐から漆黒の色をした名刺入れを取り出し、その中の一枚を静かに相手の前に差し出す。その一連の動作は全くの無駄がなく、流れるように気品に満ちた動きだった。それを受けるように、相手も名刺入れから名詞を取り出し、テーブルの上に置く。こちらは年を感じさせないくらいに覇気と生命力に溢れた動作だ。 「いえ、気にしないで下さい。事前にわかっていたことですから。あなたの噂も聞いています。あの玄奘社長と共に、一からこの会社を立てここまで大きくした人物であると。あなたがいなければここまでの繁栄はありえなかったと伺っております」 初老の男が話している間に、ウエイトレスがうやうやしく料理を2人の所に運んでくる。 「私には過ぎた御言葉です。こちらこそ、あなたは貴社の今までの歴史の中で最も優れた経営手腕と人脈をお持ちであると聞き及んでおります」 テーブルに並べられていくギリシャ料理の数々。香ばしいオリーブオイルの香りが食欲をそそる…はずなのだが。八戒は密かに、相手に気づかれない程度に眉の角度を変えた。 「お互い、噂話というのはつきないものですが、それはここらで止めておいて、そろそろ本題の方へ入りましょうか。貴社と我が社の来年度の付き合いについて。その為に、こうして最高の眺めの中であなたの趣向に合った料理を用意させて頂いたのですから」 そういって、老人は外に目を向ける。ここは都内でも有名な高層ビルの17階に位置する最高級のギリシャ料理店だ。壁は全面ガラス張りで、惜しみなくその景観を誇らしげに映し出している。老人が言うだけあって、話し合いをするには最高のシチュエーションだ。 「御気を使わせてしまったみたいですみません。こうして最高の会談の場を用意して頂いたのですから、この話し合いを無駄なものにはしないようにしたいと思います」 そういって深深と八戒は頭を下げる。相手の会社の社長の配慮には本当に頭が下がる。どれも八戒の好みのど真ん中を射ているのだ。しかし、普段なら笑顔で喜ぶそれも、今は負担にしかならない状況に、八戒は心の中で溜め息をついた。 「それでは、あまり時間もないので始めましょうか」 そういって、老人が持ってきた茶のダレスバックの中から数枚の書類をテーブルの上に上げる。それに応じるかのように、八戒も足元に置いてある漆黒のアタッシュケースの中から書類を取り出した。 そうして食器が音を奏で始めるのと同時に、2人の会談は始まった。 地上より遥か上の17階で会社の関係を賭けた話し合いが始まった頃、そのビルの駐車場では、誰もが一度は振り返って感嘆の溜め息を漏らさずにはいられない美しさを備えたレイヴンのロールスロイスが静かに主人の帰りを待っていた。黒のマジックミラーが全面に貼られているため中の様子は外からはわからない。そんな車内で、見事な紅を髪と目に持つ、漆黒のスーツを身にまとった青年が退屈そうに欠伸をしている。 「始まったか…」 右手に光る腕時計を見つめながら、その男――――悟浄は呟いた。悟浄は三蔵と八戒が興した会社の専属運転手だ。普段からあちこちを飛び回る社長と副社長の足として、日夜ロールスロイスを繰って都内、果ては関東・関西を駆け回っている。例外なく今日も、今の会談の前に、他社との仕事の打ち合わせなどで既に朝から都内を走り回っている状態だった。毎日の動きは秒単位のスケジュールとして悟浄の頭の中に叩き込まれている。 「今日の昼飯はギリシャ料理だったよな…羨ましい…にしても、八戒の奴大丈夫か?」 ギシギシと音を立てながら背もたれに寄りかかり、誰の答えも返ってこない問いを呟く。 「最近アイツ疲れてっからなぁ…大抵の食い物胃に入らないみてぇだし…けど仕事は仕事だからな…」 悟浄の顔が渋く歪む。八戒との付き合いは大学からになるが、悟浄は八戒がどんなに無理が体にきても、周りに悟られずにいつも通り振舞うのが天才的に長けている男だと知っているし心得ている。だから、今も仕事の為とはいえ、重い体をおして秒単位のスケジュールをこなしている八戒のことがどうしても気になってしまう。 そうしてしばらくウンウン唸っていた悟浄は、もう一度腕時計を見直した。 「後30分か…俺も腹減ったし、そこらのコンビニで何か買ってくるか」 溜め息と共に吐き出される言葉。まだ半日残っている今日を乗り切る為には、このほんの少しの休息の間に自分も腹ごしらえをしておかなくてはならない。そう思った悟浄は、車のキーを差しエンジンをかけ始める。 「ま、八戒もいつも通りで帰ってくるんだろうし」 アクセルを踏んで車が前へ進む。ゆっくりとハンドルをきって車を仕切っていた白い線の囲いから抜け出した。 「あいつが好きなのは確か…」 悟浄は思い出しながらラジオのチャンネルを回す。 適当に洋楽が流れている所に合わせたら一気にアクセルを踏み、発進命令を出されたロールスロイスは軽快に道を走り出した。 ガチャ。 音がして、悟浄が座る運転席のちょうど後ろにある後部座席のドアが開いた。 「お疲れさん」 そちらを振り返らずにバックミラー越しに後ろを見やれば、かなり疲れた顔をした八戒が、今までの貫禄を全て脱ぎ捨ててきたかのような様子で車内に入って来た。その様子を横目に、悟浄はダッシュボードから可愛らしいピンク色のタイマーを取り出し時間を設定してサイドボードの上に置く。これが鳴るまでは、ちょっとの休憩時間ということになるのだ。 「ええ、本当に。それより悟浄、あなたの方こそ朝から走りっぱなしで、ちゃんと休みました?」 八戒は後部座席に腰を下ろし、持っていたアタッシュケースを横に放り投げ、空いてる手でネクタイを緩め一番上のボタンを外して思いっきり長い溜め息をつきながら言った。いつも笑顔の八戒も今この状況では笑顔を作る余裕は流石になく、勝手知ったる付き合いで自分を知ってる悟浄なら変に気を使う必要は無いと、ありのままを曝け出している。こうして殻を被らない自分に戻れる場所というのは本当にありがたいと、八戒は切に感じていた。 「俺のことは気にすんなって。お前が車降りてる時間はそのまま休憩タイムになるんだから。それよりお前大丈夫か?仕事とは言えまた食えないモン無理やり腹の中に収めてきたんだろーが」 「あれ、心配してくれるんですか?」 ミラー越しではなく直に上半身を後ろへ捻って八戒の顔色を伺う悟浄。合わされた視線に、八戒はいたずらっぽく笑い返す。そんな八戒の調子に悟浄は鼻を鳴らして視線を前へ戻した。 「ったり前だろバーカ。てめぇの会社の副社長にぶっ倒れられたら一大事だろうが」 先程よろしく音を立てながら背もたれに寄りかかる悟浄。口調はぶっきらぼうなものだが、その様子から八戒を心配していることの照れ隠しだとわかる。 「理由はそれですか?大事な恋人が倒れたら泣いてしまうって言ってくれるかと思ってちょっと期待したのに」 後ろから背もたれに手をかけ僅かに体を寄せて残念そうに八戒が言う。しかしそれに悟浄は答えず、助手席に置いてあったビニール袋からおにぎりを一つ取り出して八戒の方へ投げてよこした。突然のことに咄嗟に反応が遅れたが、無事取り落とすことなく八戒はそれを受け取る。 「ほい、昼飯。どうせまた食後に戻してきたんだろ?ちょっとでも腹に何かいれないと本当に倒れちまうからな」 悟浄のセリフに八戒が手元を見やれば、丸い形をした黒い物体に、パッケージには「鳥五目」と書かれたおにぎりが手の中に納まっていた。これは何種類もあるおにぎりの中でも、八戒が一番好きなものである。以前ぽろっと悟浄へ漏らしたのを今も覚えていて、悟浄がおにぎりを買ってくると決まってこの種類を持ってくるのだった。 「ありがとうございます、悟浄。やっぱり、悟浄にはお見通しですかね」 嬉しさと、自分の行動が逐一バレているのではないかというちょっとした不安に、八戒は苦笑で答えた。悟浄の言った通り、八戒はあの会談の後相手会社の社長が帰るのを見送ってすぐにトイレに駆け込んだ。少し前から始まったこの現象に、そろそろ本気でやばいかと少し不安になっていたところだったのだ。 「ま、戻したばっかでちょっときついかもしれないけどよ」 ミラーを通して八戒を見つめる悟浄。八戒は視線を手元に固定したまま、笑顔でそれに答える。 「いいえ、そんなことありませんよ。こうした気遣いが本当に上手いですよね悟浄は」 その声も口調も、悟浄が自分のことを思ってくれているのが嬉しくてしょうがないという感じがにじみ出ている。声にこそ出さないが、心の中で悟浄は照れた。 「にしても、もったいねぇよなぁ。折角の高級料理だったろうに。しかもお前の好物じゃん」 その照れが顔に出てしまう前にと、悟浄は悟られないように顔を少し下げて視線を逸らし口を開く。そこら辺の女より余程綺麗に手入れされたセミロングの紅い糸が、ちょどいい具合に悟浄の顔にかかり表情を消してくれる。 「まぁ、そうなんですけどね…胃がちょっと受け付けないっていうのと…うーん…最近ちょっと飽きたってとこでしょうか?」 俯く悟浄の耳に、八戒の声と、ペリペリとおにぎりの包装を破く音が聞こえる。その言葉に悟浄は呆れて顔を上げた。 「おいおい、体調悪いだけじゃなくて、飽きたってどういうこった。そんな贅沢なこと言って良い訳?」 「ホラ、僕って仕事上、今日みたいに食事を挟んだ会談っていうのが結構あるじゃないですか。その度に、相手の会社の方に何だかんだでメジャーなものからマイナーなものまで用意して頂いたりで、世界中の料理を食べる機会が結構あるんですよ。だから、確かに好きは好きなんですけど、最近はちょっと遠慮したいなぁ…っていうのもありまして」 ちょっと申し訳なさそうな口調とは反対に、淡々とした手つきで包装を解いていく八戒。おにぎりを包んでいた袋が全部取れ、八戒の手の中には少し湿ったのりの感触が触れた。タイミングよく悟浄がコンビニで買い物をした時にもらったビニール袋を差し出し、八戒がそれにゴミとなった包装を入れる。 「すっげぇセリフ。今の発言で日本国民の4分の3は敵に回したと見たね俺は」 ガサガサと、自分も買ってきたおにぎりを食べようとビニール袋の中を探りながら悟浄は言った。大きな手の中に納まった小さな三角のおにぎりには、「トロわさびマヨネーズ」と書かれている。 「そんなことないですよ。ホラ、寿司屋の子供って小さい頃からご飯にお寿司ばっかり出るから嫌いになるっていうの、あるじゃないですか。原理としてはそれと同じだと思うんですけど」 心外だとばかりに、ミラー越しの悟浄へ向けて視線を送って発言してみるが、当の本人は包装を解くのに夢中で気がつかない。その表情がまた妙に真剣で子供みたいで、気づかれないように八戒は小さくクスリと笑った。そして、悟浄が買ってきてくれたおにぎりを口へと運ぶ。少ししなびた柔らかい海苔と少し濃い目に味付けされた炊き込みご飯がうまく混ざり合い、八戒の口の中に流れ込んだ。 「ああ、美味しいですね。何か生き返ります」 ひとしきり、最初の一口を味わってから満足げに八戒が言う。同じく食べ始めた悟浄が、口いっぱいにおにぎりを頬張りながらミラーを通して八戒を見た。 「ってそれ、コンビニのおにぎりだけど。もっと良いモン食ってるクセに、そんなんで美味いなんて言っちゃっていいわけ?」 つい今しがたこのビルの上で高級料理を食べてきた人間のセリフとも思えないそれに、思わず悟浄は突っ込んだ。すると、八戒もミラーを通して悟浄へ視線を合わせ、少し呆れたように口を開く。 「だから、いろんな国の料理はもう食べ飽きたって言ってるじゃないですか」 「そのおにぎりだって、お前が好きっつったからいっつも俺が買ってきてるヤツじゃん。そろそろ飽きたんじゃねぇ?」 八戒が言葉を切ったと同時に、すかさず悟浄が口を挟む。その顔には「いじわるで言った」と言わんばかりの笑顔が浮かんでおり、それを見た八戒は応じようと悟浄とは逆に深刻そうな表情をつくった。 「そうですね…確かにそうかも」 言いながら手に持ったおにぎりに視線を向けて大仰に溜め息をついてみせる。それを見た悟浄は思わず目を丸くした。 「おいおい、それじゃ美味くなくなっちまったんじゃねーの?無理して美味いなんて言う必要ないんだぜ?」 冗談で言ったつもりがあながち冗談でもなさそうで、慌てて悟浄は身を乗り出して後ろの八戒を見た。心配した表情が、八戒と視線があった途端に消えうせる。てっきり八戒が辛そうな顔をしていると思った悟浄は、振り返ってから視界に入った八戒のあまりにも真剣な顔に思わず今の状況を忘れ、魅入った。ただでさえ男らしい顔をしている八戒の真剣な表情など滅多に見ることはできない。急速に悟浄は自分の鼓動が早くなるのを感じた。 「いえ、味自体は好きですよ。美味しいのは、あなたがいるからです」 前半はあくまでサラッと、後半は一字一句を頭のてっぺんから足の先までゆっくりと染み渡る様に、大切に、八戒は言った。 真剣な表情に真摯な言葉。とにもかくにも、悟浄にとっては不意打ち意外の何物でもなかった。僅かに目を見開くだけで、咄嗟に声も出ない。ただ、目の前にいる八戒の真剣さが伝わってくる度、それに比例した嬉しさが心を満たしていく。 「あなたがいるから、どんな食事でも美味しく感じるんですよ。あなたがいない食事なんて、味がないどころか意味すらないですね」 悔しい、と、悟浄は思う。そして、ずるい、と。自分が言おうと思っていたことをあっさり言われてしまった悟浄は、八戒の言葉をそのまま受けてしまうのは癪だとばかりに、今の無表情のまま口を開いた。 「じゃあ、お前もうじき栄養失調で死ぬんじゃねー?」 その言葉に、八戒は答えない。ちょっとの間、車内は音の無い空間と化した。どれ位そうして見詰め合っていたかはわからないが、先に根を上げたのは八戒の方で、小さく吹き出すと苦笑を浮かべて悟浄を見た。 「…今の、一応プロポーズのつもりだったんですけど。おかしいなぁ」 ポリポリと頭を掻きながら言う。そんなことわかってる、と悟浄は心の中で言ってから、人差し指をわざとらしく立てようやく笑って口を開いた。 「ロマンが足りない。惜しいな、後一押し」 ニヤリと笑う悟浄に、今度は八戒の方が面食らって目を丸くした。それから、耐えられないというようにもう1度八戒が吹き出し、それにつられた悟浄も口を開けて、2人で音を立てて笑いあった。 「流石は世の女性達をたった一言で落としてきた男なだけありますね。けど、食事って大切ですよ?できなきゃ死んじゃうんですよ?相手の生き死に握れるなんて、相当なロマンだと思いません?」 ひとしきり笑い終わってから体を前に戻す悟浄に八戒が言う。拗ねた様な口調が可愛らしく、思わず悟浄はミラー越しに八戒を見てしまった。ミラーを通して見た八戒の表情は、口調同様拗ねたものであり、ますます悟浄は可愛いと思ってしまう。 「それどういうロマンだっとぅわ!?」 言葉途中、背後から伸びてきた八戒の手が運転席の横にあるレバーにかかり、そのまま引いたと思った瞬間、全体重を背もたれに預けていた悟浄は、考える間も無く倒れていく背もたれと共に後部座席めがけて勢い良く背中を打ちつけた。 突然のことで頭が状況についていかず、ただでさえ背中を打った痛みで鈍っている思考回路を回復させようと試みた悟浄はしかし、倒れた悟浄に覆いかぶさるようにして顔を覗き込んできた八戒によって、中断させられる。 「あなたにしか、僕の栄養補給はできませんよ」 続けて小さく耳元に寄せた口で「させるつもりもありませんしね」と言われてしまえば、もう悟浄にできることは何も無い。あるとすれば、みるみる熱を上げていく顔を必死に堪えることくらいだ。どう頑張ってもこの男には勝てないと痛感した悟浄は、白旗の代わりに手を上げて答えた。 「…んなもん今更だろーが」 癪は癪だが仕方が無い。腹を括った悟浄は降参した。大体、改めてそんなこと言わなくても2人の間はとっくにそういうことになっていると悟浄は思っている。だから特にそういうことは言ってなかったのだが、どうせ言うなら自分から言いたいと思っていた分、照れと同時にちょっとした敗北感が悟浄の中をよぎる。 「おや、ロマンを求める人が、プロポーズすっとばしていいんですか?」 折角のプロポーズを今更と言われてしまった八戒は、悟浄の反応に不満げに口を尖らせる。本当、かっこいい顔をしてるくせにこういうことをするあたりがガキ臭くて可愛いのだと悟浄は思った。 「言葉にしなきゃわかんねーことじゃねぇだろ?」 歯を見せて笑う悟浄。その表情も負けず劣らず子供の様だ。その言葉を聞いた八戒は苦笑する。八戒も悟浄の様に、自分達の間がそんな言葉如きでどうこうできるものではないということ位わかっている。しかし、折角ならやっぱり好きな人にはプロポーズをしてかっこよく決めたいと思うのが男心というものだろう。 「折角勇気を出して言ったのに、つれない人ですねぇ」 言いながら悟浄の綺麗な紅い髪に右手を絡ませる八戒。指の間をサラリと流れる柔らかなその感触に、酔ってしまいそうな感覚になる。そんな八戒に、子供に「いい子いい子」するように、悟浄は八戒の頭に手をやり撫でる。 「一生面倒見てやるから。とりあえずお前の作った煮つけが食いたいなぁ」 頭を撫でていた手をぐっと顔まで引き寄せて、甘えた声で悟浄が言った。悟浄お気に入りの煮付けは、始めて八戒が悟浄に作った料理であり、それ以来悟浄の中での八戒レパートリーNO,1になっているのだ。 その声に一瞬八戒の動きが止まるが、そこはぐっと堪えて苦笑で返す。 「ただでさえ忙しい僕に、酷い仕打ちですねぇ。せめて今週末まで待ってくれないと、作るどころか材料買いに行く暇もありませんよ」 引き寄せられた顔を少しだけ上げて、悟浄の顔を真正面から見える位置で両手で悟浄の頬に触れる。八戒はいつだってこうした悟浄の我侭に快く応えてくれるのだが、今は正直忙しくて時間がない。それでも、こうして1番始めに作った料理を今でも好きだと言ってくれる悟浄に、八戒は嬉しさを隠しきれない。 「俺はいつまでも待てるけどよ、早くしないとマズイのはお前じゃねーの?」 何とかして希望を叶えようとしてくれる八戒に、悟浄は内心嬉しくて仕方が無かった。しかし、こうして自分となら食事が入る八戒の体調を心配して言ったのが半分あった為、実際八戒が忙しいのはわかるが、何とか栄養を取る機会を設けたいと悟浄は思う。そんな悟浄の気遣いを八戒もわかっており、ちょっと心配をかけすぎているかと反省しつつ、自分はそんなに弱くはないと悟浄に伝えようと笑顔を見せて語りかける。 「大丈夫ですよ。とりあえず、あと半日分の栄養を今貰いますから」 そういって、八戒の顔が悟浄の顔に近づく。その言葉にちょっとびっくりした悟浄だが、すぐに笑って受け入れる為に目を閉じる。結局、どんな食事も悟浄1人には敵わない。八戒の全てを満たすことができるのは悟浄でしかない。 八戒の、悟浄の頬を包む手に少し力が入る。2人の距離は少しずつ縮まり、もう目を閉じていてもお互いの息遣いでお互いのことを確認できる位置にあった。触れていなくてもその唇に相手の熱が感じられる。善がるように悟浄が少し唇を前に出し、それに応じるように八戒が薄く唇を開いて悟浄の口へ触れようとした。 その時。 ピピピピッ 突然車内に響き渡る機械的な音に、一瞬びくりと体を震わせ2人同時に目を開ける。その音は普段から聞きなれているタイマーの音だった。先程悟浄が設定しただけの時を刻んだのか、甘い時間の終了を無常にも2人に告げていた。 「…クククッ」 不意に、耐えられなくなったのか悟浄が肩を震わせて笑い出した。その様子に拍子抜けした八戒は、それでも悔しそうに、悟浄の頬をつねりながら憮然として口を開く。 「笑い事じゃないですよ…全く、何て無粋なんでしょう。それもこれも全部、こんな時間に設定した向こうの社長が悪い。散々嫌味でも言ってやりましょうか」 完全な逆恨みである。そもそもこの時間を設定したのは社長の三蔵であり、向こうの社長のせいではない。そんな理由でこの男に恨まれたのでは、いくらなんでも相手が気の毒だと悟浄は思う。何とか笑いを収めて八戒を宥めにかかった。 「やめとけって。後で三蔵に何言われるかわかったもんじゃねぇから」 ぽんぽん、と八戒の頭を叩きながら悟浄は上体を起こす。しぶしぶ八戒は悟浄の上から退け、それに「よし」と言って頭を撫でた悟浄は、椅子の横のレバーで背もたれを元の位置に戻す。そして、未だにサイドボードの上で鳴っているタイマーを黙らせた。 「でも、ですよ!?僕と悟浄の時間を邪魔するなんて、僕自ら死刑にかけても…」 「八戒」 拗ねて窓の外を見ながら尚も言い募る八戒がどうしても冗談に見えない悟浄は、苦笑しながら八戒のことを呼ぶ。呼ばれた八戒は途中で言葉を止めて悟浄の方を向いた。と、すぐ目の前には、息が止まる程綺麗な悟浄の顔。 ちゅ ほんの一瞬の出来事。あまりにも唐突すぎて、唇のその感覚を脳で認知した頃には既に、悟浄の唇は八戒の元を離れいつも通り前を向き、車のキーを回してエンジンをかけていた。まるで夢でも見たかのような不思議な感覚に、八戒は目を丸くするだけで何も言えない。 「さーて、あと半日、頑張りますか!」 対する悟浄は何事も無かったかのように、来ていたスーツを調えてしっかりとハンドルを握る。不意打ちを「してやったり」と思っていた悟浄は、どんな顔をしているだろうとそっとミラー越しに八戒を見ようと視線を向ける。と、こちらの方をじっと見つめている八戒と目が合い、平静を装っていた心が僅かに跳ねた。 「…悟浄、今日の帰り、スーパー寄って下さい」 静かに口を開く八戒。その声音は否定を許さない色を含んでいる。しかしそれよりも色濃く残る切羽詰った感じ、それはいつも情事の時にだけ聞くことの出来る、悟浄の大好きな声だった。「いいのかよ」と悟浄は内心思ったが、悟浄の目に写る八戒は完璧に雄のそれであり、どんな顔よりも色っぽい表情を見せられたことで悟浄自身の気持ちも昂る。迷う気持ちは一気に振り切れ、夜への期待に、表には出さず心の中で悟浄は深く笑った。 「了解」 エンジンが弱弱しいものから景気の良い音に変わる。まるで悟浄の気持ちを表しているかのような音に応えるように、悟浄は上機嫌でアクセルを踏む。 「たっぷり栄養補給させてやるから、良い子で頑張れよ」 しっかり真正面を見据えて悟浄が言い放つ。それは悟浄からのプロポーズ。自分がかっこよく決めるつもりが逆に決められてしまった八戒は、内心で苦笑しつつ、しかし悪い気はしない。 折角の悟浄の誘い、今日は甘えるだけ甘えさせてもらおう。 そうしっかりと心に誓った八戒は、午後の予定を最短で終わらせる為にフルスピードで頭を回転させ始めた。 |
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